あおのソラ

あおの気持ちをつづります

介護は専門職です。

想像や主観で、ルールを決めてしまうなんてことは極めて危険であり、そこに専門性は感じられない。業務の流れのみならず支援の方向性までもが変わってしまう・・・。ただ、そういった職場は、少なくないのかもしれない。と私は思っている。

 

細かいことで言えば、排泄支援。

 

「パッドをつけてもらおうか。家族に頼んでください」

こんな風に、立場のある職員の一言で、パッドをつけるといった方法が決まってしまう。

「この方は排尿感覚が長いし、拒否も強いから誘導はしなくていい」

こんな風に、立場のある職員の一言で、トイレに行けなくなる。

アウター(テープ式オムツや紙パンツ)やインナー(尿取りパッド)の選択にしても、アセスメントすることを当たり前に教わってきた職員にとっては、疑問に思い、戸惑うでしょう。トイレにお連れし座るとちゃんと排尿があることを見ている職員にとっては、トイレ誘導を続けたいでしょう。

しかし、汚染があったら直ぐにパッドが必要と考える職員がいるのも、拒否や不穏という言葉を、自分たちにとって都合よく便利な言葉にして日常的に使う職員がいるのも、残念ながら介護現場です。

 

自分たちのケアを振り返らない・・・。

 

パッドはまだ必要ないと思えた。トイレ誘導を行うことで尿失禁はここ一月なかった。下剤を飲んだとき、便でパンツが汚れることはあったけど、パンツの外側、ウエスト部分が汚染してしまう。パンツの内側に重ねるパッドを使っても意味を持たない。排泄動作をみていても、便器に向かって後ろ向きには下がれない。便座に対して正面向いてズボンを下ろされる。後方が汚れてしまっていたのは腰をおろしながら、そして下衣がさがりきる前に、もよおしてしまったから。

こんな意見があるように排泄動作1つとっても、ちゃんとみていると、どこに支援が必要かもわかってくる。パッドありきでは考えない方がいい。ましてパッドを付けることで、自分で出来ている上げ下ろしが難しくなる可能性もある。他にもちゃんと利用者のことを、観て思って考えてくれている職員もいるのだから。

 

でもね・・・こういう意見は、影響力のある職員への反論にもとれるよね・・。煙たがられるだけです。

座れば排尿があること、パッドを使わなくても職員の声掛けと関わりがあれば、汚染が防げていたことは、関係がないんです。ぬるま湯に浸かってしまった職員にとっては、今までこうやってきていた。という歴史が大事。だそうです。誰の為に働いているの?なんて質問はしない方がいい。影響力の強い立場のある職員が放った言葉は、ここには歴史がある。でした。

 

私が職員に期待したのは、ただ2つだけです。

・利用者をみて欲しい。

・相手に問題があると決めつけないでほしい。

この2点だけなんだからそんなに難しいことではない。

利用者をみて知ってくれている職員は予測が出来るようになります。

予測とは、根拠をもとに推し量ること。最初に書いたように想像だけで決めつけてしまうのは可能性を奪ってしまう。予測できる職員は対応も適切で信頼度が高い。それは普段しっかりと関わっているからなんですよね・・。見えてくるものがある。わかることがある。

 

そして、もう1つ。

ケアする側の問題が何故か相手の問題にすり替わっている。悪口をいったり利用者を否定するような言葉は、その時点で尊厳は守られていません。

可能性を奪わないこと。尊厳を守ること。

いつも私は、ぶれずにいってきた。

 

「かかとをいつも踏んでいる。注意しても直さない。わざとやっている」

そういって利用者の靴の履き方を文句並べて利用者批判をする職員がいた。何様だ?と内心思ったけどね。

「かかとを立てるサポートをしてあげたら済む。施設の利用者は、臥床時まで靴を脱ぐことは少ない。起床時に介助をするだけで一日、適切に靴を履けている。歩きやすいように環境を整えてあげればいい」そう伝えてはみるがやっぱりまた伝わらない。巻き爪があるから、かかとを踏むことで足が前にすべり悪化する可能性もある。それを伝えても、そこには興味がない。

 

だから私は、介助で靴をちゃんと履けている日を、増やすだけでいいと思った。

 

職員の学びや向上心を望んでいる組織は、意外に少ない。

服薬に関してもそうです。食事に関してもそうです。口腔ケアもそうです。

たった1つの提案すら後ろ向きになる。

やる気のない職員が増えるのも・・・あきらめる職員が増えるのも・・・答えは1つです。組織に問題がある。軸がないから同じ方向をむけない。

 

ただ、どうか多くは望まないので、頑張っている職員をつぶさないでください。真面目に働いている職員の邪魔だけはしないでほしい。自分たちの介護で目の前の利用者を元気にしたい。純粋にそう思っている職員が、いなくなるのは何故ですか?

 

歴史が大事なら違法行為も虐待もあっていいのか?と突っ込みたい気分だけどやめておきます。

 

やる気なんて求めていない。正しいことがわからないなら、せめて悪いことはしないでもらいたい。そしてその大事にしている歴史があるなら相手を思ったケアを重ねて歴史を積み上げてって欲しい。

 

過去に苦しいことがあった。誰かの想像や主観だけに左右される支援は、私なら私の人生において望まない。

人はそんなに強くない。私は強いけどね…

 

歴史というのは、自分達だけのものではない。その人にも歴史があるんだと言ってやりたかった。

 

介護の専門性とは…何度も書いてきたように私は、[関わり]だと思っています。

 

関わりが上手い職員は、コミュニケーション能力も優れています。

料理を作って提供しても、食べたことを忘れてまだ食べていないと訴えるお婆さんに、あなたなら何と返しますか?

「食べましたよ。忘れたんだよ!今さっき食べてたでしょ!」と怒って、相手を責める。もしくは無視をする。

 

嫌な思いをさせないで済むようにどう返答したら良いのか、相手とちゃんと関わりを持てていたら工夫も出来るはずです。分からないから怒るんですよね。

 

一方で、

「食べた気にさせられなくて、自分の力不足です」と満足のいく手料理では無かったのかもしれないと自らを振り返る職員もいます。食べたと否定はせず食べた気にさせられなかったかもしれない。満足いく料理ではなかったかもしれない。とちゃんと考えてくれる。

 

どちらがその後のお婆さんを気分よくさせたかは、わかりますよね?

 

持てるはずの関わりを疎かにして相手の気持ちや行動の予測なんて出来ません。相手の思いを想像することができるのは関わりを持ててこそです。

目の前の利用者としっかり関わることが、介護の仕事です。介護は専門職です。