あおのソラ

あおの気持ちをつづります

介護は専門職です。

想像や主観で、ルールを決めてしまうなんてことは極めて危険であり、そこに専門性は感じられない。業務の流れのみならず支援の方向性までもが変わってしまう・・・。ただ、そういった職場は、少なくないのかもしれない。と私は思っている。

 

細かいことで言えば、排泄支援。

 

「パッドをつけてもらおうか。家族に頼んでください」

こんな風に、立場のある職員の一言で、パッドをつけるといった方法が決まってしまう。

「この方は排尿感覚が長いし、拒否も強いから誘導はしなくていい」

こんな風に、立場のある職員の一言で、トイレに行けなくなる。

アウター(テープ式オムツや紙パンツ)やインナー(尿取りパッド)の選択にしても、アセスメントすることを当たり前に教わってきた職員にとっては、疑問に思い、戸惑うでしょう。トイレにお連れし座るとちゃんと排尿があることを見ている職員にとっては、トイレ誘導を続けたいでしょう。

しかし、汚染があったら直ぐにパッドが必要と考える職員がいるのも、拒否や不穏という言葉を、自分たちにとって都合よく便利な言葉にして日常的に使う職員がいるのも、残念ながら介護現場です。

 

自分たちのケアを振り返らない・・・。

 

パッドはまだ必要ないと思えた。トイレ誘導を行うことで尿失禁はここ一月なかった。下剤を飲んだとき、便でパンツが汚れることはあったけど、パンツの外側、ウエスト部分が汚染してしまう。パンツの内側に重ねるパッドを使っても意味を持たない。排泄動作をみていても、便器に向かって後ろ向きには下がれない。便座に対して正面向いてズボンを下ろされる。後方が汚れてしまっていたのは腰をおろしながら、そして下衣がさがりきる前に、もよおしてしまったから。

こんな意見があるように排泄動作1つとっても、ちゃんとみていると、どこに支援が必要かもわかってくる。パッドありきでは考えない方がいい。ましてパッドを付けることで、自分で出来ている上げ下ろしが難しくなる可能性もある。他にもちゃんと利用者のことを、観て思って考えてくれている職員もいるのだから。

 

でもね・・・こういう意見は、影響力のある職員への反論にもとれるよね・・。煙たがられるだけです。

座れば排尿があること、パッドを使わなくても職員の声掛けと関わりがあれば、汚染が防げていたことは、関係がないんです。ぬるま湯に浸かってしまった職員にとっては、今までこうやってきていた。という歴史が大事。だそうです。誰の為に働いているの?なんて質問はしない方がいい。影響力の強い立場のある職員が放った言葉は、ここには歴史がある。でした。

 

私が職員に期待したのは、ただ2つだけです。

・利用者をみて欲しい。

・相手に問題があると決めつけないでほしい。

この2点だけなんだからそんなに難しいことではない。

利用者をみて知ってくれている職員は予測が出来るようになります。

予測とは、根拠をもとに推し量ること。最初に書いたように想像だけで決めつけてしまうのは可能性を奪ってしまう。予測できる職員は対応も適切で信頼度が高い。それは普段しっかりと関わっているからなんですよね・・。見えてくるものがある。わかることがある。

 

そして、もう1つ。

ケアする側の問題が何故か相手の問題にすり替わっている。悪口をいったり利用者を否定するような言葉は、その時点で尊厳は守られていません。

可能性を奪わないこと。尊厳を守ること。

いつも私は、ぶれずにいってきた。

 

「かかとをいつも踏んでいる。注意しても直さない。わざとやっている」

そういって利用者の靴の履き方を文句並べて利用者批判をする職員がいた。何様だ?と内心思ったけどね。

「かかとを立てるサポートをしてあげたら済む。施設の利用者は、臥床時まで靴を脱ぐことは少ない。起床時に介助をするだけで一日、適切に靴を履けている。歩きやすいように環境を整えてあげればいい」そう伝えてはみるがやっぱりまた伝わらない。巻き爪があるから、かかとを踏むことで足が前にすべり悪化する可能性もある。それを伝えても、そこには興味がない。

 

だから私は、介助で靴をちゃんと履けている日を、増やすだけでいいと思った。

 

職員の学びや向上心を望んでいる組織は、意外に少ない。

服薬に関してもそうです。食事に関してもそうです。口腔ケアもそうです。

たった1つの提案すら後ろ向きになる。

やる気のない職員が増えるのも・・・あきらめる職員が増えるのも・・・答えは1つです。組織に問題がある。軸がないから同じ方向をむけない。

 

ただ、どうか多くは望まないので、頑張っている職員をつぶさないでください。真面目に働いている職員の邪魔だけはしないでほしい。自分たちの介護で目の前の利用者を元気にしたい。純粋にそう思っている職員が、いなくなるのは何故ですか?

 

歴史が大事なら違法行為も虐待もあっていいのか?と突っ込みたい気分だけどやめておきます。

 

やる気なんて求めていない。正しいことがわからないなら、せめて悪いことはしないでもらいたい。そしてその大事にしている歴史があるなら相手を思ったケアを重ねて歴史を積み上げてって欲しい。

 

過去に苦しいことがあった。誰かの想像や主観だけに左右される支援は、私なら私の人生において望まない。

人はそんなに強くない。私は強いけどね…

 

歴史というのは、自分達だけのものではない。その人にも歴史があるんだと言ってやりたかった。

 

介護の専門性とは…何度も書いてきたように私は、[関わり]だと思っています。

 

関わりが上手い職員は、コミュニケーション能力も優れています。

料理を作って提供しても、食べたことを忘れてまだ食べていないと訴えるお婆さんに、あなたなら何と返しますか?

「食べましたよ。忘れたんだよ!今さっき食べてたでしょ!」と怒って、相手を責める。もしくは無視をする。

 

嫌な思いをさせないで済むようにどう返答したら良いのか、相手とちゃんと関わりを持てていたら工夫も出来るはずです。分からないから怒るんですよね。

 

一方で、

「食べた気にさせられなくて、自分の力不足です」と満足のいく手料理では無かったのかもしれないと自らを振り返る職員もいます。食べたと否定はせず食べた気にさせられなかったかもしれない。満足いく料理ではなかったかもしれない。とちゃんと考えてくれる。

 

どちらがその後のお婆さんを気分よくさせたかは、わかりますよね?

 

持てるはずの関わりを疎かにして相手の気持ちや行動の予測なんて出来ません。相手の思いを想像することができるのは関わりを持ててこそです。

目の前の利用者としっかり関わることが、介護の仕事です。介護は専門職です。

組織に求められるものは育成なんだろな

介護職員さんは、センサーマットを置くことで安心があると言った。

記憶障害があって転倒リスクが高い利用者さんに、センサーマットを設置する。というのは介護施設ではよくあることだよね。

マットセンサーや荷重センサー赤外線センサーなど色々あるけど施設では、コールに連動するタイプのものを使っていた。中でもマットセンサーの使用頻度が1番高かった。
 
センサーマットは、転倒を必ず防げるものではない。そしてまた、センサー感知するたびに職員の不要な訪室が増えてしまう。本人にとって、監視されているような環境だと感じてしまう可能性がある。ご家族にはしっかりと説明をし、理解をしていただいたうえでの導入としていた。
 
でも実際は、センサーマットがあることで職員の不適切な言動は増えていた。
 
センサー音が鳴りやまないこともあれば、本人がセンサーを跨いで移動するといった危険な動きも出ていた。職員は、その都度訪室をして利用者さんの対応に追われてしまう。きつく利用者さんを怒る職員も増えていた。
 
ベッド脇に置かれたマットに不快を露わにする方や 、音自体を嫌がる方もいる。
音がなると何故か職員か来てくれる。申し訳ない。マットを踏んだら職員に迷惑をかけてしまう。と言われる方もいた。
 
センサーマットを設置することで、本人も職員もストレスを抱えているなら無いほうがいい。と私は言った。 転んでも怪我が少ない対策というのを考えたほうがいい。 センサーの電源を入れ忘れる職員もいる、センサーが鳴っているのに訪室が出来ない場面もある。自ら、センサーマットを畳んで片付けてしまう利用者さんもいる。 センサーマットを設置した意味を問われることになり、それこそ責任がある。と伝えた。
 
でも、介護職員さんは、 センサーマットを置いてあることに意味がある。と捉えていた。転倒を予防するための対策をしている。ということを言いたかったのだと思う。
センサーマットを使用することで自分達は守られている感じがある。だからやっぱり、あったほうがいい。とはっきり私に伝えてきた。
 
音が鳴っても実際は、すぐには駆けつけられないから、焦って対応が雑になり、イライラもするでしょ?それでも、あった方がよいの?と再度確認をした。
 
ほかの方の支援に入っていても、センサー音が鳴っていればその方が動いてることに気づくことができる。そこで転倒していたとしても、センサー音が鳴っている時間に転んだということがわかる。
そしてたとえ訪室が遅れたとしても、音が鳴っていたから、駆け付けることができたと考えると、助けるタイミングも早くなる。と言われた。
 
なるほど・・・うん確かに… 。
 
センサーマットは、動きを制限するものではなくて、動き出しのタイミングを知るものであるとしたら、そろそろ予測が出来ていてもいいのではないか?音が鳴らなかったら気づけない、というのも少し違うのではないか…私にはそんな気持ちがあった。自分たちがアセスメントを行った結果、 センサーマットを外す期間を設けて、予測で動いてみるという対応があってもいいのではない?と話してみた。
 
転倒の危険があるということがわかっているからこそ、センサーマットを設置した。センサー音が鳴るたびに本人の思いや行動の意味が分かるようになった。そして本人が動きたいタイミングで支援につけるようになった。だから予測ができるようになり、訪室が出来て、転倒を防げている。という対応の方が、自分たちを守ってくれるのではないか。きっと多分、本人が嫌がっているセンサーマットを外すために、どう向き合ってくれたかの姿勢のほうが、絶対的な信用につながる。と私が思っていた。
 
センサーマットを設置することによるストレスが、認知症の進行に影響することを考えると、私はセンサーマットは一時的なものとして活用してもらいたいと思っていた。ただ、やっぱり何かの代替案を提案しても、なかなか先に進まない。
 
『絶対に転ばせてはだめ』という介護職員の不安は大きかった。誰も試したがらなかった・・・。
 
私は、現場職員の休憩を回すために毎日決まった時間に、現場業務に組み込まれていた。午後15時からは、センサーマットを使用している方の階を、一人で任されるという時間帯があった。それがかえって、アセスメントしやすかった。
15時以降の利用者さんの様子は、私が待機をしているからこそ、わかるよ。って言えていた。センサー音が鳴る時間と、どの利用者さんが起きだしているのか?そしてこの人はそろそろトイレに行くタイミングだとか、あの人は夕方カーテンを閉めるのに動き出すこと、そして見ているテレビ番組や、電話をかける時間なども、把握していた。
 
センサーマットを外して様子をみる。といった対応は、話し合いを重ねた結果、私が待機している時間帯で試してみることができた。あれから日中は、外すという対応をとれるようになった。
 
センサーを導入するのは早いのに、センサーを外すといった選択には、時間がかかるということを知った。
 
基準がないからこそ、評価もし辛い。外すためのチェックリストがあったら良かったよね。医療の面でも助言をいただいたり、提案をうけるようになって、少しずつみんなと一緒に、考えられるようになったと思う。
 
センサーが有効なこともある。怪我を未然に防ぐことが出来たり、マットを避けて移動する利用者さんの工夫もしれる。想像以上の身体能力が見えたりもする。ただセンサーを使う利用者さんばかりの環境は、職員の首を絞めることにもなる。そして1番は、センサー設置を嫌がる利用者さんもいるということ。
 
安全が優先だからと正当化される対応は、その方の気持ちを置き去りにすることがある。
だからこそ、考え続ける必要がある。
 
 
それにしても、介護職員さんが言った「センサーマットを使用することで自分達は守られている感じがある」の言葉がずっと腑に落ちないでいる。
 
守られるていると感じるものがセンサーマットの設置‥って。分かるような分からないような何とも言えない気持ちだった。
あの頃の職員は、今思えば焦燥状態に近かったかもしれない。夜勤職員は1人だったりもする。イレギュラーな出来事も起きる。
 
守られていると思える存在が必要なのかもしれない。自分たちの仕事に責任をもつという意味でも人材をちゃんと育てるという事がいかに大事なのかを考えさせられる。教育や育成に力をいれてこそ、互いにフォローしあえる関係性が作れるんだと思う。それがないと成長は難しい。
だから、どこのどんな組織も、頑張ってほしいって思います。
 

〇〇に負けるな!

看取り期では、ご家族は本人に付き添って施設で寝泊まりすることがある。

本人のそばにご家族がいると、介護職員は安心すると同時に、家族がいるからと訪室をためらっている人もいた。理由は二つだろう。

24時間自分たちのケアをそばで見られるということ。本人の横で常にその家族が付き添っているのだから、自分たちのケアを見られるということに施設職員は慣れていない。

もう一つは、付き添っている家族にも、疲労がある。夜中の巡視のたびにノックで目を覚まさせてしまったらどうしよう。という遠慮がある。もっと言えば、何か気遣う言葉をかけなくてはいけないって思っている。更には『おばあちゃん1週間もちますか?』なんて分からない質問をうけることもある。そういったことから苦手意識を持つ職員も多かった。

 

私は、家族によく言われてきた言葉がある。

「おばあちゃん田中さんの言葉には返事をしているんだね」

「おばあちゃん田中さんが来たら表情も反応も良いんだよね。」

 

これは、あんまり嬉しいことではなかった。

そう、私だから。ではないんです。

 

先に書いたように介護職員が訪室をためらっていたから。なんだよね。

本来自分たちがしている仕事を見られることに慣れていないから自信がない。

家族がいると緊張してしまって普段通りの声掛けができていない。

誰が入る?と譲り合っていることもあった。

 

私は、みんなの関りを見てもらうと良い。きっと家族も喜ぶよ。って言ってきていた。本人のことをよくわかっている職員がいる。という事をちゃんと知ってもらいたかった。

最初は、「えー。」とか「でも・・」と消極的だった。

この人は耳が遠いということ、どちらから声を掛けたらよいのか?どういう問いかけならわかりやすいか?どんな言葉に返答が返ってくるのか?そして、この人が笑う時.喜ぶ時.手を握りかえす時.そういったタイミングもみんなは知ってくれているじゃん。

勿論、本人が、こちらの問いかけに応えようと頑張ってくれているのかもしれない。だからこそ、私たちは、その声掛けを工夫する必要があったよね。こういう問いかけには、返事ができるんだよ。まだ喋れるんだよ。ってことを、知っている自分たちだからこそ、家族に伝えられるんだよ。本人も家族も嬉しいと思うし、自分たちも介護職として自信が持てるじゃん!って話してきた。

まあ、すぐには、変化は見られなかったし、たぶん、なかなか伝わらなかったけどね・・・。怖がらないで訪室をちゃんとしてください!って最後はちょっと偉そうにいったこともあったな。

それがやっぱり変わってきたのは、もっと出来る事があったのかもしれない!こうしてあげればよかった!という振り返りを重ねてきたからなのかもしれない。後悔の残る支援があったという経験も、考えるきっかけになったのだと思う。

 

訪室することをためらう職員はいなくなり、看取りケアを怖がることなく、しっかりと本人とその家族に向き合えるようになってくれた。

介護職はすごいんだよって思っている。現場にずっと入らざるを得ない環境を強いられてきたケアマネだから見てきたものがある。だから言える。

「大丈夫だよ」という言葉は、誰でもかけられる。でもその言葉を、背中をさすりながら又は、手を握りながら言ってくれる職員がいた。

本人は安心を感じられたのではないか。

「ご家族が来てくれているよ」ってみんなが教えてくれている。でも、この位置で声をかけてあげてください、娘さんの顔がよく見えるから。って家族に伝えてくれた職員がいた。本人はもっと嬉しいだろうね。だって寝ている姿勢だと柵が邪魔していて娘様の顔が見えにくいって思っていたかもしれない。

この人は分かってくれたって喜んでいるかもしれない。

 

そんな風に、本人のことを知っていると、その人の気持ちを想像したいと思えるようになる。安心にかえられる関りをみつけてこそ、現場職員だと私は思っている。介護も看護も含めてね。

施設によっては、正直しっかりと関りを持てていない職場もあると思う。自分も施設はいくつか見てきたから。でも一緒に働いてきた介護職員に対しては誇りをもっている。

「身体の向きを変えるね」と言葉をかけても聞こえていなければ返事はできないよね?

体力もおちていく中で、準備ができていないまま体の向きをかえられ、突然目の前の景色がかわるって本人はきっと怖いだろう。私はそういったことをいつも考えてきた。

 

だから必ず名前を呼び掛けて、こちらに気づいてもらう。そのあと問いかける。というのを皆で意識してきた。簡単に言うと例えば・・・

「○○さん」はい

「わかる? 」○○さん。

「そうだよ。今から少し体の向きを変えるよ。」コクっとうなずく。

「いい?枕を少しずらすよ。」いいよ。

これだけでも、4つの反応があって意思を確認できている。

1つ1つの動作の前に、相手の返事を待って行動に移すということは、看取り期に限った話ではない。日頃から積み重ねていなければ、できることではない。意識をしないとそんな当たり前すら出来なくなる現場を私は見てきていた。意識し続けることが大事なんだって思っています。

 

施設に入っている利用者さんって、私の経験ですが、殆どの人が「ここで最期を迎えたい」っていうんですよね。

自分が最後まで居られる場所がある。ということの安心は大きいんだろうな。

その安心の中に、施設で働く職員がいるという人的環境も含まれているよね。

だから「ここで看取られたい」と言ってもらえるような関りを作れるのは、自分達だよってみんなが言えるといいですよね。

 

私は、誰に看取られたいのかを考えた時、分からないです。いろんな人を看取ってきた中で本人が最後に言葉にしていた人物を考えると、その方が生きてきた人生において、思い出に強く残る人物なのかなっていう気はします・・・。思い出す場面にいる人物っていったほうがいいのかな。

 

介護の専門性は何なのか?の正解は分かりません。私はずっと関りだって言い続けているけどね。それは私の主観だからね。介護職を応援している人がいることを、現場で一生懸命働く職員さんに伝わって欲しいよね。

 

現場の介護職がもっと発表できる場があるといいなって思っています。介護職だから、見てきたこと、わかったこと、関りのエピソードって沢山あると思う。

自分の言葉でちゃんと言える人って、きっと尊敬されるし、頑張っていることも理解されやすくなるのになって思う。

連日届く介護職員さんからのメールにちょっとエールを送りたくなって、書いてみました。〇〇に負けるな!←好きに当てはめるといいよ(笑)

 

○○に負けるな!

看取り期では、ご家族は本人に付き添って施設で寝泊まりすることがある。

本人のそばにご家族がいると、介護職員は安心すると同時に、家族がいるからと訪室をためらっている人もいた。理由は二つだろう。

24時間自分たちのケアをそばで見られるということ。本人の横で常にその家族が付き添っているのだから、自分たちのケアを見られるということに施設職員は慣れていない。

もう一つは、付き添っている家族にも、疲労がある。夜中の巡視のたびにノックで目を覚まさせてしまったらどうしよう。という遠慮がある。もっと言えば、何か気遣う言葉をかけなくてはいけないって思っている。更には『おばあちゃん1週間もちますか?』なんて分からない質問をうけることもある。そういったことから苦手意識を持つ職員も多かった。

 

私は、家族によく言われてきた言葉がある。

『おばあちゃん田中さんの言葉には返事をしているんだね」

『おばあちゃん田中さんが来たら表情も反応も良いんだよね。」

 

これは、あんまり嬉しいことではなかった。

そう、私だから。ではないんです。

 

先に書いたように介護職員が訪室をためらっていたから。なんだよね。

本来自分たちがしている仕事を見られることに慣れていないから自信がない。

家族がいると緊張してしまって普段通りの声掛けができていない。

誰が入る?と譲り合っていることもあった。

 

私は、みんなの関りを見てもらうと良い。きっと家族も喜ぶよ。って言ってきていた。

本人のことをよくわかっている職員がいる。というという事をちゃんと知ってもらいたかった。

最初は、『えー。」とか『でも・・」と消極的だった。

この人は耳が遠いということ、どちらから声を掛けたらよいのか?どういう問いかけならわかりやすいか?どんな言葉に返答が返ってくるのか?そして、この人が、笑う時、喜ぶ時、手を握りかえす時、そういったタイミングも介護職員は知ってくれている。勿論、本人が、こちらの問いかけに応えようと頑張ってくれているのかもしれない。だからこそ、私たちは、その声掛けを工夫する必要があったよね。こういう問いかけには、返事ができるんだよ。まだ喋れるんだよ。ってことを、わかってきた自分たちだからこそ、家族に伝えられるんだよ。本人も家族も嬉しいと思うし、自分たちも介護職として自信が持てるじゃん!って話していた。

まあ、すぐには、変化は見られなかったし、たぶん、なかなか伝わらなかったけどね・・・。

それがやっぱり変わってきたのは、もっと出来る事があったのかもしれない!こうしてあげればよかった!という振り返りを重ねてきたからなのかもしれない。後悔の残る支援があったという経験も、考えるきっかけになったのだと思う。

 

今は、訪室することをためらう職員はいなくなり、看取りを怖がることなく、しっかりと向き合ってくれている。

 

介護職はすごいんだよって思っている。現場にずっと入らざるを得ない環境を強いられてきたケアマネだから見てきたものがある。だから言える。

「大丈夫だよ」という言葉は、誰でもかけられる。でもその言葉を、背中をさすりながら又は、手を握りながら言ってくれる職員がいた。

本人は安心を感じられたのではないか。

「ご家族がきてくれているよ」ってみんなが教えてくれる。でも、この位置で声をかけてあげてください、娘さんの顔がよく見えるから。って家族に伝えてくれた職員がいた。本人はもっと嬉しいだろうね。だって寝ている姿勢だと柵が邪魔していて娘様の顔が見えにくいって思っていたかもしれない。

この人は分かってくれたって喜んでいるかもしれない。

 

こんな風に、本人のことを知っていると、その人の気持ちを想像したいと思えるようになる。安心にかえられる関りをみつけてこそ介護職だと私は思っている。

施設によっては、正直しっかりと関りを持てていない職場もあると思う。自分も施設はいくつか見てきたから。でも一緒に働いてきた介護職員に対しては誇りをもっている。

「身体の向きを変えるね」と言葉をかけても聞こえていなければ返事はできないよね?

体力もおちていく中で、準備ができていないまま体の向きをかえられ、突然目の前の景色がかわるって本人はきっと怖いだろう。私はそういったことをいつも考えてきた。

 

だから必ず名前を呼び掛けて、こちらに気づいてもらう。そのあと問いかける。というのをみんなで意識してきた。簡単に言うと例えば・・・

「○○さん」はい

「わかる? 」○○さん。

「そうだよ。今から少し体の向きを変えるよ。」コクっとうなずく。

「いい?枕を少しずらすよ。」いいよ。

これだけでも、4つの反応があって意思を確認できている。

1つ1つの動作の前に、相手の返事を待って行動に移すということは、看取り期に限った話ではない。日頃から積み重ねていなければ、できることではない。意識をしないとそんな当たり前すら出来なくなる現場を私は見てきていた。私自身意識し続けることが大事なんだって思っています。

 

施設に入っている利用者さんって、私の経験ですが、殆どの人が「ここで最期を迎えたい」っていうんですよね。

自分が最後まで居られる場所がある。ということの安心は大きいんだろうな。

その安心の中に、施設で働く職員がいるという人的環境も含まれているよね。

だから「ここで看取られたい」と言ってもらえるような関りを作れるのは、自分達だよってみんなが言えるといいですよね。

 

私は、誰に看取られたいのかを考えた時、分からないです。いろんな人を看取ってきた中で本人が最後に言葉にしていた人物を考えると、その方が生きてきた人生において、思い出に強く残る人物なのかなっていう気はします・・・。思い出す場面にいる人物っていったほうがいいのかな。

 

介護の専門性は何なのか?の正解は分かりません。私はずっと関りだって言い続けているけどね。それは私の主観だからね。介護職を応援している人がいることを、現場で一生懸命働く職員さんに伝わって欲しいよね。

 

現場の介護職がもっと発表できる場があるといいなって思っています。介護職だから、見てきたこと、わかったこと、関りのエピソードって沢山あると思う。

自分の言葉でちゃんと言える人って、きっと尊敬されるし、頑張っていることも理解されやすくなるのになって思う。

連日届く介護職員さんからのメールにちょっとエールを送りたくなって、書いてみました。○○に負けるな!←好きに当てはめるといいよ(笑)

 

本音を言うと。

みんなで、訴えない?一緒に懲らしめない?みたいな誘いを受けることが、しばしばある。気持ちは分からなくも無い。

だけど正直わたしは、そういうのが苦手だったりする。

あなたは、率先してその一歩をふみだせるのか?と聞きたい。

学校や職場、家庭においても理不尽な扱いを受けることは少なからずある。不利益や不平等が見過ごされることもある。生きていればそういうことが起こりえる。変だけどね。

 

私は、それでも過去に2つの事案で、弁護士さんを頼ったことがある。

[30分5000円]だった。他に市が開催する[無料相談]もあった。

弁護士さんってね、忙しいのもあり、相談と言っても時間が限られているから、1から10の全部を話せる訳ではない。不要だと思われる情報は、スパッとはねのけたりもする。『弁護士さんは、親身になってくれる人』という勝手なイメージだけで、相談へ出向いた私は、若かったのもあり少し心が折れたけどね。淡々と簡潔にアドバイスをくれる人だった。

 

その時の相談というのは、会社がもつ社員寮の費用に関することだった。弁護士さんは、会社から支払われる給与やボーナスを[人質]と表現していた。『へーでもわかりやすいな』って思った。弁護士さんから領収書を貰えたから、その領収書を見せて「専門家から、こう言われました」って伝えたんだよね。結果、改善されたよ。 

 

あの時、私が弁護士さんに相談をしたことで職場の先輩や同僚からは感謝をされた。私を頼みの綱としていたのだと思う。だけど内心、私はみんなはズルいって思っていた。ただでさえ、私はリスクの少ない人生を進みたい。だから自分が困ることを避けたかった。あなた達は、なんで困っているのに安全な場所にいて待っているだけなの?って、褒めてもらえたのに、良い気はしなかった。

 

それでも、私は自分の為に誰かの為に声を出せて、適切なところに相談が出来る賢さを持つことが、 その後の人生ためになるってことを知った。

1人で行動を起こすことが、強さと言ってるのではない。1人でも主張できる勇気を持つ人を信用したい。って思っている。

 

世の中は、良いも悪いも[数]なのか・・・と思っている部分が、昔からある。[数]で決められることに、否定的ではあったけど、それでも結局は、何かを変える時には[数が多い]ほうが強い。 1人だと泣き寝入りすることも、大勢だと声が集まる分、力は大きくなるからね。

辛かったとか苦しい気持ち、そして不安とか、分かり合える人がいてくれるに越したことはない。

コロナ禍においては、感染者が拡大したことで、理解も深まったり偏見は無くなっていった。思い遣りが生まれたからね。

 

ただいつも思うのだけど人って有利になると(数が集まると)変なことも起きるよね・・・。1人では、何も言えないのにみんな同時だと、途端に攻撃的な主張を始めたりする。 だから私は、冒頭に書いたように、みんなで意見をぶつけるっていう形が、なんだかフェアじゃ無いなって思うのかもしれない。

 

弁護士さんを頼った。という行動を書いたけれど、動き出すタイミングって実際は、難しいんだよね。頑張ってきた結果、もうなんにも怖いものはない。と割り切れた時に初めて人は正直になれるってこともあるからね。 生きるって難しいから、その場所に居続けたいと思うなら、安全な立ち位置でやり過ごすことが楽だったりもするからね。 でも それならあんまり反発心は持たないほうがいい。

 

現状に苦しんでいる人がいる一方で、誰かが動き出すのを待つばかりでなく自分が動いてみると勇気を持てた自分に自信をもてると思うよ。ってことを伝えたい。

 

もっと言えば、人任せのあなたたちはズルくない?というのが本音だけどね。

介護職員さんはパンが好きらしい。

一緒に働く介護職員さんは、人見知りで控えめな子が多い。優しい人ばかりで仲も良いから、介護職員同士は人間関係において揉め事やトラブルは、ほぼ無い。

他職種や上司に対しては、現場をもっと理解してほしいという不満を持っている。現場で起きていることって介護職員さんが1番みているからね。

そしていつも休憩では、みんなカップヌードルを食べている。(男性はどん兵衛か一平焼きそばの率が高い)

カンファレンスなんかで、意見を求めると、お互いに発言を譲り合い、なかなか会議が進まない。

という印象だった。

 

でも介護職員さんをそばでずっとみてきて、わかった事がある。

消極的だからなのか、同僚(相手)を褒める時も「○○さんが、あなたのことを褒めていたよ。」と切り出すんだよね。先に自分がどう思うか?より、○○さんが言っていたよ。って伝えている。そして○○さんの言葉に乗っかる形で、私もそう思っているよ。って付け加えるんだよね。結果、嬉しそうにみんなで褒めあっている。

三者が間接的に伝えることで、仲間になっていくという過程をみてきて、効果的だということを知った。

知らないところで褒めてもらえていたというのは、真実味が増すからより嬉しいよね。褒めてくれた人にもそれを伝えてくれた人にも、好感を持てる。ƪ(•◡•ƪ)"みんなで褒めあうという形も良いよね。

逆も同様、 傷つく言葉は、第三者からだとより深い。第三者が出ることによりそれが「みんなが思っていること」「私もそう思っている」につながる。

 それがわかっている介護職員さんだから関係が良好なんだろうか。無意識なのかは分からない。ただ、介護職員さんのおかげで気付けたことって沢山あった。ありがたい。


来月は、みんなで居酒屋に行こうってなった。私んちでの宅飲みが多かったから、久しぶりの外は嬉しいな。

今食べたいものは、やっぱりお肉かな。肉には幸せ成分がたっぷりだと思っている。

「お肉って人を幸せにするよね?」っていったら、介護職員さんは口をそろえて「えー違うよ。それを言うならパンでしょっ!」と熱を込めて返してきた。

みんな、いっつもカップ麺ばっか食べているのに(๑• . •๑)??パンを食べている姿なんて、見たことないよ。ってちょっと思った。

パンは人を幸せにするって意見を揃えて熱弁できるくらいだから、いつも頑張ってくれている介護職員さんを労う時は、パンを沢山差し入れすればいいんだって思いますᐠ(∗ᵔᗜᵔ∗)ᐟ

私は、元気な時も、落ち込んだ時も、どちらもやっぱりお肉が食べたい。人生が終わる日がきても最後に口に含みたいのは焼き肉です。最近は年を取って量は食べられないけどね・・・幸せな気持ちになれる食べ物ってイイね。最強だ。

心が満たされないままの自立

人が優しい言葉をかける時、どういう時なのか少し分かってきた気がする。

「大丈夫だよ、困った時は頼ってね。一人じゃないよ。」
その言葉には救われた気がした。


でも、本当に困ったときに、助けてくれる人は殆どいません。実際に頼られるとリスクを負いたくないと言った本音が背を向けられて分かった。


頼っていいと言ってくれたのに。そんなものだとわかっていながらも、少し期待した分現実を突きつけられて悲しくなった。

 

時には意に反する交換条件を出されることもあった。目の前で困っている人がいるのに、上下関係が作られてしまう。

自分は生き辛いものを背負っているからこそ、生きるための方法と強みを考えてきた。

 

周囲には信用できる人間だという証拠を示したかった。この子の力になってあげようと思ってもらえるくらいに。

 

だから私は、嘘はつかないし、時間を(約束)守ります。途中で投げ出したり諦めたりはしません。言葉にしたことは行動で示します。

周囲の人にも自分自身にも偽り無く真面目に向き合う姿勢が、私を守ってくれると思えた。

 

支援する側の人へ、みっちり話を聞いてあげてください。できれば2時間くらい。
困りごとだけを解決しようとしてもだめ。困っている時の心境や不安だった気持ちなど・・全部を聞いてあげてください。頑張ったことを吐き出させてあげてください。


もう存分に困って来た。十分に困って来た。きっと悔しくて泣きながら立ち向かったこともあるでしょう。誤解も受けてきたでしょう。その過程は聞かなければ出て来ないでしょう。

大人になって甘えることは難しい。だけど愚痴を聞いてくれた。褒めてもらえた。否定をされなかった。それらを感じる事が出来て初めて人は「信じていい」と甘えることが出来るのではないでしょうか。


依存して何が悪いのだろう。先ずは心を満たしてあげて欲しい。相手が我儘になったとしても受け止めるくらいの思いで。

優しくされたら人は嬉しいものです。甘えてもいいんじゃないか。頼ることを依存と言われる人もいます。


でも、子供時代はきっとみんなが親や家族に依存してきたのではないでしょうか?

そんな当たり前をしてこなかった私は、初めて人に優しくされたら、戸惑いながらも、依存していくのは当たり前じゃないかと反論をしたくなった。

 

なにより、優しい言葉で依存させておいて、相手の弱さが見えた時に
「もっと頑張れ」「甘えたらだめ」「あなたを思って言っている」などは言葉にしてないですか?

その言葉で、卑屈になる事も投げやりになる事もあるかもしれません。注意や説教は逆効果になる事もあります。同じ境遇に立ったことのない人に説教をされたら、心を閉ざすでしょう。希望を失ってしまいます。心が満たされていないまま自立なんてできません。
だから心を開けなくなるんです。

子供であっても高齢者であっても‥。

 

自立を促そうとする前に、目の前の人の心を満たすことを支援者は考えて欲しい。もしかしたら、依存できるものがあってこそ生きやすいのかもしれない。